旧青山本邸(2020.11.15撮影)
遊佐町青塚の国道7号線沿いには、「旧青山本邸」の黄色い立派な看板が立っています。
遊佐町に住んでいながら「旧青山本邸」に行ったことがなく、「どんなお屋敷なんだろう?」と、ずっと気になっていました。
そこで、11/3(火・祝日)は「東北文化の日」で入館料が「無料」だったので、初めて「旧青山本邸」に行ってみました。
酒田から秋田方面へ向かう途中、右手にこの看板が見えたら、手前の十字路を左に曲がります。
直進して1分くらい行き、また左に曲がると到着です。
入口から庭のようすを見るだけでもかなり広く、みごとな景観にまずビックリ!
入る前からワクワクします。
では、北海の漁業王と言われた青山留吉さんと旧青山本邸のようすをご案内します。
屋根のてっぺんには、三つ柏(みつかしわ)の家紋
【目 次】(クリックするとどこからでも読めます。)
1.青山留吉さんの生い立ち
まずは、青山留吉さんの生い立ちです。
留吉さんが生まれたのは、今(2020年)から184年前の天保7年(1836年 江戸時代)。
4男3女の6番目で、貧しい漁師の家に生まれました。
小さいころから、父が捕った魚を売る母を助けて酒田へ行商について行ったり、15歳になる頃には父に漁のしかたを教えてもらいます。
兄弟が多かったため安政元年(1854年)18歳になるとに養子(にかほ市象潟)へ出されましたが、4年後の安政5年(1858年)22歳のときに戻って来てしまいました。
2.24歳で蝦夷地(北海道)を目指して船出
安政6年(1859年)24歳のとき、正月2日に一人川崎船で青塚から蝦夷地(北海道)の漁場を目指して船出をします。
この船出が、留吉さんの人生の転機になるわけです!
後志(しりべし)国高島郡祝津(しゅくつ)村(=小樽市祝津)の寺田久兵衛に雇われ漁夫として働きましたが、1年後の安政7年(1860年)25歳で差網漁家として独立。
春~秋には祝津で漁業、冬には青塚に戻る生活を続けました。
明治2年(1869年)34歳からは祝津に永住し、次々と漁場を拡大。
明治4年(1871年)36歳のときに1,300坪の土地を譲り受け、建て網漁。
明治9年(1876年)41歳 ニシンの豊漁により、ニシン漁を拡大。
こう書いていくと順風満帆な生活のように思えるかもしれませんが、決してそんなことはありませんでした。
天気が悪くても海に出て、危険をかえりみず無我夢中で働く毎日。
まさに命がけの生活を送った土台があってこそ、手を広げていけたのだと思います。
そして明治19年(1886年) 51歳 300人を超える使用人を抱える大漁業家となりました。
3.遊佐町青塚の故郷に錦を飾る!
一代にして巨万の富を築いた留吉さん。
明治20年(1887年)52歳 故郷に青山邸の建設を着工し、青山家の絶頂期を迎えます。
明治23年(1890年)55歳 青山本邸である母屋(おもや)が完成し、まさしく「故郷に錦を飾る」です!
4.青塚に戻り隠居、81歳で生涯を閉じる
明治41年(1908年)73歳のときに北海道の漁場を養子の政吉に譲り、青塚に隠居します。
明治45年(1912年)77歳 奥座敷、庭園、船大工小屋が完成。
晩年を過ごした奥座敷の床の間には、青山留吉さんの肖像画の掛け軸がありました。
奥座敷の床の間
奥座敷のみごとなふすま絵
神庭には、鳥海山のふもとから運んできたという高さ4mもの守護石がありました。
みごとな神庭
そして、大正5年(1916年)4月 81歳で生涯を閉じました。
旧青山本邸の敷地を入ってすぐ左手に青山留吉翁彰徳碑があり
解説にはこう書いてありました。
北海漁業を経営すること五十年余り、留吉翁、すぐれたがまん強さで注意深く、いつも勤勉・倹約に心がけて何事も行い、けっしておごらず巨万の富を築くのである。・・・以下省略
漁業王として成功を収めたけれど、けっしておごらなかったというところに留吉さんのお人柄が偲(しの)ばれますね。
5.旧青山本邸が遊佐町に寄贈され、一般公開される
昭和26年(1951年)孫の3代目 英作(嘉左衛門)の夫人(こきん)が亡くなって以降は空き家となりました。
こきんさんが履いていた高下駄
その後、平成8年(1996年)遊佐町に寄贈され、3月より「旧青山本邸」として一般公開されています。
そして、平成12年(2000年)国の重要文化財に指定されました。
6.豪華な造りと数々の調度品や美術品を見に、二度目の見学
残念なことに11/3(火)は、何の予備知識もなく行ってしまった私。
屋敷の豪華な造りだけでなく調度品や美術品をもう一度見たいと思って、11/15(日)今度はちゃんと見学料を払って見てきました。
母屋(おもや)から玄関を入ってまっすぐのところは茶の間、いろりを背にして中の間、下座敷、上座敷が広々と続きます。
玄関の右手には帳場があり、立派な金庫がありました。
帳場
金庫
風呂場やトイレ・台所も当時のまま残されていました。
風呂場
当時のままの台所
台所で使われていた道具
トイレ
外には、第一資料館と第二資料館、そして土蔵があり、当時を偲(しの)ばせる数々の資料や調度品・美術品がありました。
第一資料館の川崎船(模型)
第二資料館のさまざまな資料
第二資料館のさまざまな資料
土蔵の入り口
留吉さんの孫 三代目当主英作の妻(こきん)のべっ甲製髪飾り
みごとな屏風絵
どれもこれもみなすばらしく、すべてがお宝です。
あまりにもたくさんあって全部紹介できないので、ぜひ一度見学に行っていただきたいです。
7.青塚の海まで歩き、青山留吉さんを偲(しの)ぶ
安政6年(1859年)正月2日、期待と不安をいだきながら寒風吹きすさぶ荒海をたった一人で船出した24歳の留吉さん。
若き留吉さんの胸は、熱く燃えていたに違いありません。
青塚の海を見たくなって、青塚海岸まで歩いてみました。
旧青山本邸を出て、この道をまっすぐ進みます。
途中から松林になって、一本道を歩くこと7~8分。
青塚海岸の見えるところまでたどりつき、あたりを一望し
もっと近くまで下りて行きました。
「留吉さんはここから一人船出し、どんな苦難にも立ち向かって偉業を成し遂げ、そして50年後またここに帰って来たんだ。」と思うと、なんとも胸がいっぱいになりました。
11/3と11/15は私にとって、青山留吉さんの人生と旧青山本邸のようすを知ることができた、記念すべき日となりました。(^^)/
住所 〒999-8438
山形県飽海郡遊佐町比子字青塚155
TEL 0234-75-3145
JR酒田駅から車で20分
JR遊佐駅/吹浦駅から車で15分
「道の駅 鳥海ふらっと」から車で10分
(4月~11月)9時半~16時半
(入館は16時まで)
(12月~3月)10時~16時
(入館は15時半まで)
入館料
<個人>
一般 400円
大学・高校生 300円
小・中学生 200円
<団体(20人以上)>
一般 350円
大学・高校生 250円
小・中学生 150円
休館日
毎週月曜日
(祝祭日の場合は翌日休館)
年末年始12月29日〜1月3日